外見

秋というのは色々の大学で学祭なんてものが行われているわけだが、そのイベントの一環として例年ミスコンが行われる。弊学でミスコンは行われていないが、最近は候補者のSNSでの活動なんてのも重視されてるようで他大学にいる知り合いの「いいね」を通じて俺のタイムラインが汚染される季節、秋。この現象に立ち会って、(秋が終わるな)なんて季節を感じたりする。

外見が良い人間がかなり嫌いである。さらに言えば外見を通じて周囲からの評価を受けている人間がかなり嫌いである。気持ち悪さすら覚える。

それは自分が持ち得ないものだから?今まで見た目を褒められたことがほとんどない人間だから単純にそれを僻んでいる妬んでいるということが考えられる。昔は近所のおばさんに「美少年」と称されていたのだが…。まあ単純に自分が評価されることのない世界においてみんなでわいわいしているのが寂しいんだろうな。

自身の外見を重視している人間は他者を評価する場面でも外見を気にしているような気がする(俺の勘違いということは大いにあり得る)。なのでそういう人々と関わり合うのも気が引ける。自分のことを好きか嫌いかはおいといて、そういう人のは私を見てひとまず(ブッサイクだなー)か(小汚いなあ)みたいなことを思われているのではないかと考えてしまう。その証拠に(証拠に?)自身の外見の重要度が高い人間はそのように意識の高い人々とつるみ、その寄り合いの写真をインスタにあげる。ボケが。

人間はそれぞれ自身の外見と向き合い多少なりとも悩みを持つのだろうがその悩みの解決策として整形という手段を選ぶ人間もいる。これは個人の基準でしかないのだが整形を選ぶ人にとっての外見の重要度って私よりもかなり高い気がしていて、だからちょっと相容れない感じがするというか「そんなことしなくてもいいのにな」って思ったり。まあ整形を選択する人も「お前に何言われても関係ないよ」と思っているだろうが。

というか人間の造形って(程度はあるにせよ)完全じゃないところが美しいのであって。例えば深田えいみや明日花キララは整形を行うことで左右対称の顔を手に入れた。確かに俺も彼女らの顔を見て「整っている」とは思うのだがそそられないというか実直で下品な表現を使うと全く「抜けない」のである。顔が左右非対称だったり、斜視だったり、ガチャ歯だったりそういう「崩れた」部分がある方が「抜ける」のである。

これは何に関してもそうである。ずっとカッコつけてるだけの奴はカッコよくないのである。所々抜けてるところや、三枚目な部分や、陰鬱な部分がある人間の方がカッコいい。王道進行はキャッチーだがそれをやっているだけではダサい曲しかできないのである。流行から少し逸れていた方がかっこいいのである。

君たちはとても歪な形をしているのだが、だからこそ美しいのである。だから俺は俺を許し受け入れ、君たちを許し受け入れる。とまあそんな感じでいいのではないだろうか。