新快速に乗って

ノーと言えない日本人というかノーと言えない俺、イエスって言っちゃう俺。どこがイエスなんだ馬鹿野郎。己のイエスに首を絞められている。しかしながら自分に鞭打つではないがイエスと言ってみることで無理矢理にでも物事が前に進んでいくということもあるだろう。たまにノーと言ってみるんだけども実はノーって程でもないんだなこれが。だけどもやっぱり俺のイエスの裏には必ずノーがあるんだな。泣いているようで笑っている、笑っているようで泣いている。その倒錯が滑稽でもあり切なくもある。滑稽でもあり切なくもある、映画でも音楽でもなんでも結構この類のものを好き好んでいる私だが「自分に近いから」なんて理由でこれらに魅力を感じているならばそんなダサいことはない。

頭の中で同じ考えがぐるぐる回る。ショートしかけている。なんであの時イエスと言った、イエスと言わなかった、イエスと言わされた、イエスと言ったことで実は俺は損をしたのではないか。ショートしたとて周囲の人間の生活はなんら変わらないだろう。悔しー。残念ながらいじめられっ子が自殺をしたとていじめっ子らが自身の生き方を顧みるかといえば全くそんなことはないのと同じことである。
遠くへ行きたい。知らない街を歩いてみたい。どこか遠くへ行きたい。あの曲が頭に流れる。休日に旅番組を放送するのはみんな本当はどこか遠くへ逃げ出してしまいたいからなのだろう。ラッキーなことに俺は休学中の大学生、気力があれば、あとは金が足りていれば少し遠くへ行くことだってできちゃうのである。できるだけ遠くへ、そうだ、海を見に行きたい。京都駅までチャリを漕ぐ。着いたはいいが駐輪場を見つけるのに7分くらいかかった。だがそれを停められさえすればこっちのもんである。うん番線に新快速がやってくる。この「播州赤穂」ってのは一体どこなんだろうか。すごく遠い街だろうが海はなさそうだ。お足元にご注意ください、とりあえず乗りこんで。窓側の席に座る。景色がビュンビュンと流れていく。こんな鉄塊とぶつかったら俺はひとたまりもないだろう。やっぱり飛び込んだら痛いんだろうか。それとも一瞬で意識を失うから痛くないんだろうか。思いっきり絆創膏を剥がすみたいに。こんなことを考えてその度に怖くなる。目を瞑って頭をブンブン振る。時速130km、京都から大阪まで30分程。新快速に乗る時の気持ちは海を見る時と似ているかもしれない。圧倒的な敗北感。己の矮小さ。あまりにも自分が弱すぎて笑えてくるくらい。圧倒的な敗北は自分を縛り付けている価値観からの開放へとつながっている。頭の中を何周もしている悩みをぶっ飛ばす。もしくは、もしかすると新快速と一体化した気になっているのかもしれない。まあ事実一体化しているのだ。自分自身もこの地球上を130km/hで移動しているのだ。全能感やその類のものを感じているのだろうか。こんな愚かな思考でも新快速に乗ってる時くらい許してくれ。だいじょばないけど大丈夫ってこういうことなんかな。

一年前も新快速に乗って海に行ったことを思い出す。流れる景色に忍者を走らせて遊んでいたら夏は終わって冬が来てそしてこの夏になっていた。新快速はすごいねぇ、なんせ京都から新大阪まで30分しないんだよ。何度も繰り返される俺の話に退屈しても大丈夫、なぜなら新快速から見る景色に飽きることなんてないから。何を見ているんだろう。その瞳には何が映るんだろうか。あたしゃ瞳の住人になれるんだろうか。はたまた瞳に映らないんだろうか。まあ今は住人じゃなくても別にいいんだが。君はこんな気持ちの悪い思索に気づかなくていいんだ。ただ気づかないうちに俺は君の視界を傍受しようと企んでいる。

俺の人生に永遠はない。絶対もない。絶対大丈夫だなんて言えたらどんなに格好良いだろうか。いつだって保険をかけたような喋り方をしてしまう。きっと、多分、おそらく、だと思う、とも言える、かもしれない…。この世で不幸なのは俺だけだなんて思うほど馬鹿じゃない(思いたくもなるが)。君だって君なりに苦しんで悩んでいるのだろうし。だけど大丈夫なんて俺は言えない。できることと言えばせいぜい背中を摩ってあげるくらい。

そんな君は新快速からの景色を見て何を思うんだろうか。君と僕は違う個体だ。もちろん回路だって違う。俺がラーメンを食べたいと思っている時、君はチョコザップに行きたいと思っているように。そして違う人生を歩んでいる、これまでもこれからも。ただ、だからこそ俺と同じように感じていたのならそれはとても素敵なことだと思う。そうだったならばこう言いたくなる気持ちもわかってくれるだろう。

どこまでも行こうぜ。永遠も絶対もない。けれどもどこまでも行こう。そう言ってみよう。

俺はたまに調子に乗ってこんな恥ずかしいことを言ってしまう。